カーテンが風に揺れていた。 幼い少女がテーブルにうつ伏せ穏やかな寝息を立てている。 「A」 発したはずの言葉は音にならず、イヴリースは口を閉ざした。 少女の頬にかかった髪をはらい、下敷きにされた本を助け出し、傍らのグラスを遠ざける。 身動ぎ一つしない少女の午睡は、そのまま緩やかに息づく事をやめてもおかしくないような、そんな眠り。 「A」 どこからか取り出した鍵をそっと少女の上で手放し、イヴリースは微笑した。 「そろそろ物語りを始めよう」 落下する鍵と少女の背に挟まれた空間に波紋が広がり、大気が柔らかく震える。 それこそ湖に広がる波紋の様に美しく、部屋中に広がったそれは壁に突き当たる事無く消え、束の間の静止から解き放たれた鍵はゆっくりと少女の中へと消えた。 「退屈なんだ」 閉ざされた瞼が震える。 まるで初めから起きていたのではないのかと、疑いたくなるほどにはっきりと焦点の定まった瞳がイヴリースを捉え、伸ばされた手が流れ落ちる銀糸を絡めた。 「しょうがないなぁ」 舌足らずの言葉で少女が話した途端、世界が一変した。 柔らかな風も、温かな光も消え、世界という概念さえ暗転し、全てが漆黒に呑まれる。 混沌[カオス]。 純粋な無であるはずのそこで、何故かイヴリースには見えていた。 瞬き一つの間にその姿を変えた少女――A――は、長い黒髪を背へと払い立ち上がる。 立ち上がり、そっと左手の指輪に口付けた。 「イヴが退屈しちゃかわいそうだ」 イヴリースの左手に嵌る銀の指輪が熱をもち、輝きを発した全の指輪に呼応して脈打つ。 「今度はどんな物語がいい?」 他人の意見など歯牙にも掛けないくせにAは弾む声で尋ねた。 「そうだな、」 迷いなく伸ばされたAの手を取り、全の指輪に恭しく口付け、イヴリースは不敵に笑う。 「Aが紡ぐならどんな物語でも後悔しない」 全の指輪の生む力の奔流が無である混沌[カオス]に落とされた。 「「物語を始めよう」」 (キリキリ・・キリキリ・・パタン) |