「―――・・・」



 目覚めてみると、体は酷く重かった。



「どうも馴染まないらしいな・・」



 わかりきっていたかのように何の感慨もなく呟き、己のものではない体で女は立ち上がる。
 ひんやりとした氷は足場として酷く心もとないが、女にとってそんなことは取るに足らないことだった。
 慣れない体で――それでも、その動きに迷いや戸惑いはない――凍りついた蒼銀色の湖に立ち、女は水底[ミナゾコ]を見下ろす。



「狂神華月」



 口にしたのは、酷く懐かしい忌み名だ。










(ひまな、やつ)










 気の遠くなるほど永い間、華月のことをそう呼ぶ者はいなかった。

 天照大神を殺した狂神華月。

 その力に対しての敬意と畏怖を持って神々は華月をそう称しはしたが、誰一人としてその名を口にしようとはしなかった。
 華月の行使する力が「言霊」であったことが、その最たる理由だろう。



「随分と、まぁ」



 冷ややかな拘束に身を任せていた華月は、唐突な力の顕現に引きずられるように目覚め些か不機嫌だった。
 それもこれも、目の前にいる――愛しい少女の器を断りもなく使い、倭へと現れた――女のせいだと、分厚い氷越しの視線が女を非難している。



「これでは本当に神世の華月ではないか」



 女は芝居がかった声をあげ嘆いた。
 華月は浅く息を吐き目を閉じる。



「妾の愛しい女神」



 湖を覆っていた氷が、一瞬で水と化した。



「いつまでそうしているつもりかえ」



 ぱしゃん。



(――いつも、)



 たゆたう湖海[コカイ]の上に立つ女が投げ入れたのは、血の様に赤い勾玉。
 真っ直ぐに落ちてきたそれは横たわる華月の上に落ち、――神気が、震えた――単純な作りの首飾りへと形を変える。



(救うんだな)



 胸中で零した華月の呟きが聞こえたはずはないが、女は体の主導権を手放す刹那、今まで一度たりとも見せたことのない、寂しげな面持ちで笑った。










「愛しているからな」










 どうあっても、俺は彼女に応える術を持たない。






























「――態々倭にまで降りるなんてな」



 くたりと床に横たわっていた卑弥呼は大儀そうに起き上がり頭[カブリ]を振った。
 焦点の合わない瞳はしばらく虚空を見つめていたが、肉体と精神のズレに伴うそれもすぐに治まったのか、神々の頂点に立つ至高の存在は脇息に凭れ息を吐く。さも疲れたと言わんばかりに。



「あれの身体を、放っておくわけにもいくまい」
「それにしちゃあ随分な置き土産だけどな」
「気付いたか」



 にやり。人の悪い笑みを浮かべ卑弥呼はクツクツと楽しげに喉を鳴らした。
 左手を目の前に翳し、何度か確かめるように動かすと満足したのかまた笑う。



「あの勾玉を作るのも容易ではないからな。これ位許されるだろう」
「奴が殴りこみに来ても知らねぇぞ」



 その様子を横目でちらりとだけ確認した須佐は思わず顔を顰めた。――卑弥呼の顔が、ろくでもないことをしたときに限って見せる、見惚れるような笑みに彩られていたからだ。



「そうしたらまた殺されてやるさ」
「あの時は、本当に敵わなかっただろ」
「嗚呼、そうさ」



 けれど須佐は知っている。



「永遠に敵う事もなかろうな」



 結局、彼女は「最古の神器」を見捨てることが出来ないだけなのだ。
 それはあの神器が「死」であり「生」である以前の――卑弥呼個人の――問題で、詳しいことは知らないが、これだけははっきりと言える。

 例え卑弥呼は何度殺されたって神器を消してしまおうとはしないだろう、と。



「彼奴[アヤツ]は、神器が殺めた最初の神故・・」



 だってこいつは、あいつの事を本当に愛してしまったんだ。