自分の手を引いていた手温もりが不意に離れ、隣を歩いていたエリカの体がゆっくりと傾く。



「・・・」



 その体が倒れて尚、銀には何が起こったのか理解できなかった。
 理解できるはずもない。
 エリカの銀はエリカのお人形なのだ。エリカの意思以外で動く事はおろか、思考することさえ許されない。



「かあ、さん」



 なのに無意識のうちに銀が落とした言葉に対して、エリカが普段のように怒りを露わにすることはなかった。
 それどころか、冷たい歩道に倒れたエリカは微動だにしない。
 まるで――



「銀!」



 人形の、様に。



「遅かったか・・」



 かけつけた華月は地に伏したエリカを認め、その傍らに立ち尽くす銀を見遣り表情を歪める。
 力の発現を感じた時は既に手遅れだった。行使された力の種類は分からない。ただ、その目的は明らかだ。



「母さん・・」



 躊躇いがちに伸ばされた手が、やはり躊躇いがちに下ろされる。
 次の瞬間、二人の前からエリカの姿は消え失せた。



「チッ」



 鋭く舌打ちした華月が姿を変える。
 長く伸びた銀糸が一陣の風に弄られ宙を舞った。



「何のつもりだ」



 迷いなく一点を見据えた華月の視線を追って、ぼんやりとしたままの銀が視線を巡らせる。
 長く伸びた黒髪を高く結い上げ、何も無い空中に漂っていた風王――須佐[スサ]――は、嘲笑うかのように口角を吊り上げた。



「見ての通りさ」



 銀の視線は、その腕に抱かれたエリカへと釘付けられる。



「そいつを返せ」
「別にいいだろ? あんたが欲しいのはそっちの器で、こっちは関係ないんだし」
「返せといっている。さもないと、」
「さもないと、何だ?」



 母さん。



「言霊を操るしか能のないあんたが、仮にも三貴神が一人この風王須佐に、さもないと? ハッ! 思い上がるのも大概にしろよ」



 母さん。



「あんたじゃ俺には勝てないぜ? 野に下った華月神」
「・・・」



 それまでじっとエリカを見つめていた銀が、おもむろに左手を持ち上げた。



「母さん――」






























「満ちし時よ。さぁ、導くがいい」



 右手に持った緋扇[ヒオウギ]を音もなく閉じ卑弥呼は嗤[ワラ]った。
 愛しき弟よ。愚かな弟よ。汝らが思いさえ我が掌中にあるのだと。



「古き器は染まりつつある。――美しき蒼銀に」



 用意させた水鏡の中で力が揺れている。
 比類なき物と自負していたそれが揺らいだ今、須佐は、さぞ驚いていることだろう。



「染めてはならぬ。染まねばならぬ。彼[カ]の器」



 嗚呼、なんと滑稽な事。



「憶えているか? 華月神」



 お前でさえ妾の思うままなのか。



「漸く借りを返すことが出来る」



 妾を殺めた愛しい華月。






























「クソッ!」



 風が荒れ狂っていた。
 風王と呼ばれる須佐の支配下にあるべき風が、その命を無視したった一つの意思に従っている。



「ありえねぇだろ! 俺はそいつに力を与えてない!!」



 ともすれば自身を傷つけようとする風を避け地に足を付けた須佐が絶叫した。
 風が荒れ狂い渦を巻いているのは、何の支えもなく宙に浮いたエリカの周りだけだ。



「母さん」



 今やはっきりと意思の宿る銀の声に、エリカは応えない。
 母さん。己の頬を伝う雫の名を銀は知らなかった。



「そうだろうさ」



 須佐の鋭い視線から銀の姿を隠すように立ち、華月は須佐を睥睨する。
 右手を肩の高さにまで上げるその動作が、やけにもったいぶって見えた。



「銀は完全なる器だ」
「なっ!?」
『失せろ、須佐』
「ありえねぇ!!」



 ぐにゃりと空間が歪み、触手を伸ばし、須佐を絡めとる。
 その瞳にはっきりとした怒りを浮かべ華月は吐き捨てた。



「シナリオを書いたのは、卑弥呼さ」